ヨーロッパ
2012年 07月 07日
スミねえさんのイタリア生活が始まる。
私も、午後からOGノグチさんとヨーロッパに向かう☆
ヨーロッパ軒本店・福井県敦賀市で70年続く洋食店
定番絶品ソースカツ丼☆でっかいカツが3枚
ランチデート♡
土砂降りの敦賀港
そして、今日の収穫(お勉強)
敦賀港は西洋への玄関だった!
リトアニア副領事官・杉原千畝がポーランドのユダヤ人6000人を救った逸話。
当時の日本政府が拒否、禁じたビザ発給を彼の独断で行った。
シベリア鉄道を経て、ウラジオストクの港からこの敦賀港へみんなやってきた。
そして敦賀のひとたちがあたたく迎えた。
その時代、東京ーベルリン路線の定期切符が売られていたらしい。
東京から長浜を経由して敦賀を経てロシアからヨーロッパに行ってたそうだ。
ブルーノ・タウトも敦賀から日本に入った。
小さな記念館のガイドのおじさんがくわしく、くわしく裏話までしっかり話してくれた。
その後、ユダヤ人たちはアメリカ、オーストラリアに向かう。
その6000人の末裔が今や25万人に。
杉原千畝だけでなく、日本上陸後の彼らの行く末を、その当時の役人たちの融通と総合力が国が入国禁止、拒否していた政策をうまーく調整していた事実。
それだけ、当時の役人たちは自分の頭で、モラルで物事を考えて行動していたわけだ。
そんな品性と誇り高い人たちがいた日本。
敦賀が西洋への日本の玄関だったこと。
そんなことを知り、感じることが今日はできた。
資料をいっぱいいただいてきた。
帰りに、湖北・木之本町の富田酒造に立ち寄って、新しい商品の打合せ。
◎
私も、午後からOGノグチさんとヨーロッパに向かう☆
ヨーロッパ軒本店・福井県敦賀市で70年続く洋食店
定番絶品ソースカツ丼☆でっかいカツが3枚
ランチデート♡
土砂降りの敦賀港
そして、今日の収穫(お勉強)
敦賀港は西洋への玄関だった!
リトアニア副領事官・杉原千畝がポーランドのユダヤ人6000人を救った逸話。
当時の日本政府が拒否、禁じたビザ発給を彼の独断で行った。
シベリア鉄道を経て、ウラジオストクの港からこの敦賀港へみんなやってきた。
そして敦賀のひとたちがあたたく迎えた。
その時代、東京ーベルリン路線の定期切符が売られていたらしい。
東京から長浜を経由して敦賀を経てロシアからヨーロッパに行ってたそうだ。
ブルーノ・タウトも敦賀から日本に入った。
小さな記念館のガイドのおじさんがくわしく、くわしく裏話までしっかり話してくれた。
その後、ユダヤ人たちはアメリカ、オーストラリアに向かう。
その6000人の末裔が今や25万人に。
杉原千畝だけでなく、日本上陸後の彼らの行く末を、その当時の役人たちの融通と総合力が国が入国禁止、拒否していた政策をうまーく調整していた事実。
それだけ、当時の役人たちは自分の頭で、モラルで物事を考えて行動していたわけだ。
そんな品性と誇り高い人たちがいた日本。
敦賀が西洋への日本の玄関だったこと。
そんなことを知り、感じることが今日はできた。
資料をいっぱいいただいてきた。
帰りに、湖北・木之本町の富田酒造に立ち寄って、新しい商品の打合せ。
◎
by riki_seri | 2012-07-07 21:44 | 旅するセリバシ/ゼミ